MESSAGE
メッセー

敵はだれか?解決とはなにか?そもそも問題とはなんなのか?

なぜ“いま”なのか?

企画の立ち上げから約5年
ようやく『MONOTO-SITUATION : LUCID AND DAYDREAM』が完成します。

当初、この作品は『MONOTO-SITUATION』というシンプルな名前のタイトルでした。そこから幾度かのチャレンジを経て、大きな方向転換をした末に 『LUCID AND DAYDREAM』というサブタイトルが付き、現在の形に落ち着きました。

それは決して短い時間ではありません。ですが、なによりもこの作品自体が“熟す”のには、ここまでの経過が必要だった―“いま”の自分でなければこれは作れなかったし、世に出すべきはいまだったと、完成を目の前にしてそのような手応えを感じています。

時代は“なに”を求めているのか?

“いま”という時代、スマートフォンは大きく普及し、連絡手段もメールから LINE に移り変わり、個人による生放送・ライブ配信もすでに当たり前になりました。パッと頭に浮かぶ流行りモノを挙げてみても、VR ゲームにオープンワールドゲーム、リアル脱出ゲーム、会いに行けるアイドル、音源所有よりライブ参加、二時間の映画より五分の生放送などなど、“リアル(タイム)な体験”を提供するようなコンテンツやサービスが並びます。

一方で明確なバックグラウンドを持たないキャラクターがもてはやされ、その成長や変化―特に死は忌避されるようになり、なにげない日常を前提とした緩やかな共感性―誰かとの“いま”の共有が切実に求められているように感じます。

時間も距離もさまざまな物事が近づき、限りなく“いま”に収束する世界―それはある意味では夢に一歩近づいたと言えるかもしれません。ですが、そんな時代に生きる人々を俯瞰してみると、その様相は諸手を挙げて肯定できるとはいえない、とても刹那的で、とても近視眼的な、あるいは前提付きの消極的な肯定の結果であるような、そんな息苦しさを感じずにはいられません。

“物語”は必要とされていないのか?

そんな“いま”の時代に求められているのは“体験”です。体験とは、いま起きている事象を自分の眼で耳で鼻で口で、あるいは手で―といった体の感覚器官を使って受け止めた“生データ”を指す言葉です。

もうひとつ“経験”という言葉もあります。経験とは、体験で得られた生データを解析し、そこにどういった意味があるのか、なぜそうなったのか、その解釈を経て蓄積される“加工データ”を指します。

人の成長には“経験”が必要です。“体験”だけでは一時的な快・不快でしかありません。そして、そのときに必要になるのが“物語”の存在です。主人公たちが与えられた状況に対して、なにを思い、どう判断し、その結果なにをしたのか―その一連のプロセス(≒文脈)を疑似体験するコトによって“体験”を“経験”に昇華するのに必要な補助線を得るためのツールが“物語”です。

もし求められている“体験”が“経験”への昇華を前提としていなければ―“物語”が必要とされなくなっても仕方がないように思えます。それどころか“体験”自体が価値であった場合、他者の解釈が介入してくる物語性というのは、むしろ邪魔な存在でしかありません。

“ヒト”として生きるか? あるいは――

生まれたばかりの赤ちゃんは笑顔を知りません。笑っているように見えるのは生理的微笑と呼ばれる現象であり、ただの筋肉の反射に過ぎないと言われています。しかし、それによって親は幸せを感じ、代わりに愛情を与えられるコトを知り、赤ちゃんは社会的微笑を覚えます。もし、そこに親からのフィードバックがなければ、赤ちゃんが笑顔を覚える機会は失われます。

経験を得たいと望むその裏には、いまよりもより良い自分―未来への希望が必要です。希望がなければ“いま”を変える必要性は生まれません。ともすればそれは無気力と解釈されるかもしれません。ですが、未来もまたフィードバックなしには生まれないのです。

もちろん、そんな現状に対して絶望する人もいるでしょう。ですが、絶望とは望みを絶った状態―たとえ一度でも未来への希望を抱いたコトがなければ、絶望はできません。そんな未来への希望を覚える機会を失った子供たちの中に、絶望すらも許されない“無希望さ”が蔓延しているように思えてなりません。

だからこそ、いまこそ彼らに届く本当の意味での“物語”が求められている時代ではないのか―と、そのように思います。

“ヒト”として生きるか? あるいは――

いま必要な“希望”とはなにか
この世界にニュータイプは存在しません。人類は革新も補完もされませんし、共に生きるのは結果であり、斜に構えて静かだけど確かな希望を伝えてみても、無希望な彼らには届きません。

時代の閉塞感に対して大人が“起爆剤”や“突破口”と叫んでみても、それはあくまで社会インフラが整い、新しいモノを生み出す余白がない―そんな時代における方法論であり、そもそもなぜ生み出すのか、その意義を見いだせない“いま”の時代の彼らにとっては、ただただ空々しく聞こえるだけです。

敵はだれか?
解決とはなにか?
そもそも問題とはなんなのか?

『MONOTO-SITUATION : LUCID AND DAYDREAM』はそんな“状況”に真正面から立ち向かっていく主人公とヒロインの姿を描いた作品です。彼らの生き方は決して器用とはいえません。ともすれば、それは“希望”と呼べるのかと疑問に感じられる人もいると思います。ですが、それでもそれは彼らにとって、確かな実感の感じられるかけがえのない“希望”のひとつなのです。

願わくばこの作品が誰かの希望を生み出す助けとなれたら―と、そう願いながら完成に向けての最後の作業に全力を傾けたいと思います。